胸がキュン!(伝えよう!)


今日は卒業式。
最後の卒業式。
今書いていて、ちょっと淋しい。
胸がキュンと鳴っている。
(アーハズカシ、いい年こいて)


何だろう?
もと自分の職業だったから?
自分から辞めたから?
なんだか切ない。
悪いものじゃないものだってあった。
(みんな一生懸命だったんだ、それなりに)
(かなり見えていないみたいところもあるけど…言い過ぎ)
それをワタシは捨てました。
敢えて捨てました。
思い切って捨てました。
(ワルイ表現ですが)
必要な勇気だと思って捨てましたよーん。
(ものすご〜く時間がかかったけどね)
でも、悲しい思いもこうやって湧き上がっちゃう。
ほんとにバカなヤツだなぁ、と思う。
自業自得さ、などと思う。
(自嘲気味   (;_;) )

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今日の卒業式はきっと、ずっと残るだろうな。
あの体育館でのこと、子どもの動き、表情、いろんな人々、
職員室での1日、終わってからの片づけ…。
たったそれだけなんだけど、一つが終わった…。
感傷っぽいね…終わっていくというのは淋しいもんです。


動いているときなんて早く終われば、なんて考えている。
しかしこうやって、思い出してみると、
妙に価値があった、それなりに大切だった、一生懸命だった、
人々との関わりが嬉しかった、などなどが思い出される。
今までだって、そういうことが結構あったんだ。
でも、殆ど思い出さずに過ぎてきた。
そういう感傷など瞬時に忘れ、次の思い、新たな行動に移っていった。
感傷さえ、人やもちろん自分の表情など思い出すこともなかった。


しかし、今日は違う。
(子どもや同僚の表情、言葉、態度、思いが残っている)
きっと自分へのこだわり、自分の行動へのいたわり、励まし、
がんばっていたじゃないか、良いこともあったじゃないか、
否定しているようだけど、そこが自分の今の精一杯の場所で、
それが自分であり、そこにこそ小さくても何かがあった。
そうやって人は、いつもそこでこそ何かを得ようとしている。
今までやってきたことへの積み重ねが少しずつまた、続いている。
それが次へ、また繋がっていく。
それが貴重なんだ、嬉しいんだ、連続しているんだと無意識であっても、
きっと思っているんだな。


今日は、それを意識した。
こうやって書いて、思い出し、今と繋(つな)がった。
確かに淋しいとも思ったが、終わってしまった感傷は残ったが、
それがきっと、今の、そしてこれからへと積み重なる貴重な体験、
経験だと意識されていて、きっと何かに役立つときが来る。
(かもね)
それを思うことができて、こうやって書いたことも良かったが、
今日の1日を、嬉しく過ごしたい、これからも毎日、そうやって
考えられたらいいと思えた、この(繋がる)思いを忘れたくない。


一時の感傷とともに、今までの中にこそ、静かに(ときには嫌悪とともに)
連続してる自分の生きている(はずの)直感を、感じ取りたい。
お巫山戯だが、自らの表現を通して。
そしてそれが、具体的行動と実行として生活にでてくるとき、
それはワタシの場合、人とともに学び合うことでした。
それが、どんな教育(共育)形態を取ろうが。
(公私の場、規模の違い、んで、その中に進化?の過程があったと思う)
(まあ、結局は区別はないのだろうけど)
(で今度は、卒業式がない教育形態で生きていこうと思ったのでした)

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アー長いなぁ、今日は。でも書く前に眠ったからお尻が痛いくらい。
(でも、目が疲れてきた、そろそろ午前2時 3/19 寝よーかな)
ところで、この文章が書けたのは、山田ズーニーさんの文章を
読んだからです。→ http://www.1101.com/essay/index.html
ズーニーさん、ありがとう。
人の文章を読むことは、とてもとても貴重ですね。
(ついでに私のも読んでね。 f(^_^;スンマセン)