記憶のモト

記憶を失えば、ふつうには生きていけないだろう。
脳のある部分を使い、過去の記憶をもとに今へと続いている。
未来へも繋げようとする。


それはプラスの時とマイナスの場合がある。
特にマイナスは拘束される場合。
拘(こだわ)りであり、自らが抱き、自分から崩れる。
スポーツなどで経験しやすく、勝負性が絡んでいるものなど。


結果を良くしたいと思えば、それに拘りやすくなる。
その結果がどうなれ、ワルイ先が見えていても実行する。
悪癖というかもしれない。
それを覚えていてもムダだが、多くはそれを覚えて実行する。
いわゆるコダワリの習慣、記憶。。


よい記憶があるとすれば、成功経験や、気持ちがよいと
感じる質のもの。
つまり、今や未来の実行へ確実にプラスの影響を及ぼす。
多少のリスクを抱えつつ、ムリをしないで行動させる。
それは入れ替わりが自由で、改善を厭わず、
良質な状況への置き換えを、フレッシュさを常とする。


そういう習慣、考え方、生き方。
そのモトになるものは百人百様だろうが、その更にモトがある。
それは小学校、今は幼稚園時代からの勉強内容。
それに自信を持って、多少の喜びを持って、
少しの嬉しさを持って、学習、勉強されていること。
つまり、イヤだけどなんとなくアソビ的に勉強を楽しむ余裕。
それが習慣として形成されていること。


それを促進させるのは、勉強への自信、記憶の面白さ、
つまり覚えたことで点数が良かったり、褒められたり、
応用問題が解けたり、知識の情報が嬉しくその実感を感じること。


つまり、記憶の入れ替え・置き換えによる楽しい経験、嬉しい体験、
記憶行動そのもの、何かを勉強して得る感情経験であり、
身体全体へのバランス的な刺激、自分を高揚せしめ、
気持ちよくさせて発育させる微少なエネルギーである。
それは長寿につながる可能性があり、それは習慣であるが、
それはコトバに拠るものであり、教養が必要であり、一つの興味ある
好きな学習の暗記学習から始まる。


どこで生まれ、何様か、環境は、何を持つか…は、ほとんど重要ではない。
国の洗脳教育の隙間をぬって、公教育を利用し、
勉強の一部に興味を持つこと、それを覚えること、
領域限定は無し、とにかく深め、その記憶を一生のものにする努力。


その暗記行動は誰だって、今から始められる。
それを刺激できる人やモノは多いに活用する、たぶん少ないはずだが。
広く浅く、がほとんどである。


で、歳を取るということは、どちらの立場にもなるということだが、
なにかを暗記していないと、記憶は薄れ、他への刺激もむずかしい。