遊牧民の女の子の向学心?

昨日テレビで、砂漠に生きるモンゴル遊牧民のたくましい生活を見た。
なぜか時たま、テレビは遊牧民の生活を放映する。
(刻苦勉励式、がんばり主義の道徳性に合ってるのかも)


小学校高学年くらいの女の子が厳しい生活の中、90頭の山羊を追い、ラクダに乗り8キロもの道のりを二日に一度水を飲ませに行く生活。
父のいない母親を助けつつ、年に2回、10日間の季節学校を楽しみに生きる。
でも、夏の干ばつで秋の学校には行けなかった、小学1年生クラスだが…。


くたびれたヨレヨレの教科書で、夜、手伝いのあとに読みの練習。
(うなるような発音と、本のアルファベット文字が合わない感じがした)
春の学校で、読み書きがとても進歩した、わずか10日間で。
(算数はできなかった、7−2はできたが)
学校に入るために山羊の毛を売り、鉛筆とノートで、半分がなくなっていた。
学校の休み時間、陣取りのような遊びで、楽しそうに嬉しそうに笑う。
(日常ではあまり見られない表情、移動型遊牧生活の厳しさ)


できればしたくない生活だが、いずれはやって来るかも。
今の生活が激変しないとは限らない、定住から移動生活へ、
蓄積からその日暮らしへ、依存から自前へ。


折り畳み式の移動型家屋(ゲル?とか言ってたような)が、象徴的である。
(山羊の草場を追い求め、ゲルを持って砂漠内をフラフラと移動する)
車の代わりにラクダやウマ、そして山羊のミルクは必需品だが、
それを飲むとき、茶碗の中に何か入ってたなあ、黒いのが。
そういうのを覚悟する、気にしない、何かを犠牲にする?ことで、
はじめて残酷な自然と渡り合えるのだろう。
(ワタシ、インポッシィブル。対策はないだろうなあ…)


彼らはマジメそうだが、勉強してエラくなりたそうではない。
女の子は(母親も)ただ遊牧生活のために勉強するんじゃないか。
山羊を数えたり、金を計算したり現実生活のためだ。
それは生活内で必需品としての勉強・知識で、多分、知恵に転化されていく。
印象的だったのは、女の子はもう、イイ目をした大人の顔だった。
(ギリギリの生活での激しい労働と、生活から芽生える知的欲求か。)